リアルに対面コミュニケーションをしているにもかかわらず、誤解は簡単に生じるものです。
日本語の限らず、人と人との間で交わされる言葉が食い違うことは当たり前だとわかっていた方がよいのだそう。
今回は、言語学者の川添愛氏著書『世にもあいまいなことばの秘密』より、言い手の意図と聞き手の解釈が違食い違ったことで、ただごとではないケースに陥る可能性がある言葉をご紹介します。 。
言い手の意図している語義とは食い違う取られ方をされる、やっかいな助動詞の代表格は、「(ら)れる」でしょう。
「(ら)れる」の語義として、たいていの辞書には、
1.受け身
2.尊敬
3.可能
4.自発
という、4つの意味が列挙されています。
社会言語学者の井上史雄さんがエッセイの中で挙げているエピソードとして、
ある会社の部長が部下を乗せて車を運転していました。
駐車場を見付けた部下が
「部長、あそこに止められますか?」
と言ったところ、部長が
「私の運転技術を疑うのか!」
と怒ってしまった、というのです。
部下にしてみれば「お止めになられますか?」という
2.の尊敬の意味で言った言葉が、部長には3.の可能「止めることができるか?」に聞こえたのです。
話し手(部下)は、「尊敬」の意味で「(ら)れる」を使ったのに、聞き手(部長)は「可能」の意味に取ってしまったことに、このエピソードの誤解の原因があります。
「(ら)れる」に多くの意味があるため、こういった取り違えが起こるのは仕方のないことかもしれません。
では、言葉の曖昧さを実感するため、次の例題を考えてみましょう。
【問い】次の各文の「(ら)れる」は、複数の解釈が可能です。
「受け身」「尊敬」「可能」「自発」の4つから、少なくとも2つずつ選んでください。
1.山田先生は道行く人に駅の場所を尋ねられた。
2.犯人がこの中にいると思われる。
3.山田先生は初日の出を見られた。
↓
↓
↓
↓
↓
1.は、「受け身」と「尊敬」の解釈が可能です。
受け身の解釈だと、「道行く人が山田先生に駅の場所を尋ねた」という意味になり、尊敬の解釈なら「山田先生は道行く人に駅の場所をお尋ねになった」と言い換えることができます。
また、人によっては「可能」の解釈と取る可能性もあります。
その場合は、「山田先生は道行く人に駅の場所を尋ねることができた」と言い換えられます。
2.は、「受け身」と「自発」の解釈が可能です。
受け身のの解釈の場合は「犯人がこの中にいると(誰かに)疑われてしまう」と言う意味になり、自発の場合は「犯人がこの中にいると思うのが自然である」となります。
3.は「尊敬」と「可能」の解釈ができます。
尊敬の場合は「山田先生は初日の出をご覧になった」、可能の場合は「山田先生は初日の出を見ることができた」と言い換えることができます。
このように何通りもの解釈ができる「(ら)れる」ですが、可能の「(ら)れる」は「~することができる」、尊敬の「(ら)れる」は「お~になる」などの尊敬表現に言い換えることで曖昧さを消す言い方に変換することができます。
可能の「(ら)れる」については、「来られる」を「来れる」、「見られる」を「見れる」などと言う、いわゆる「ら抜き言葉」を使う場合があります。
ら抜き言葉は「言葉の乱れ」と言って嫌がる人もいるので、使う場面でには気をつけた方がよいでしょう。
しかし、ら抜き言葉を使うことで、可能の意味がはっきりし、「られる」の曖昧さが軽減する効果があるのは確かなのです。
私たちの日常には、物事を遠回しに言う「婉曲的な言い方」がたくさんあります。
しかしそれだけに、すれ違いも多く発生するようです。
次の会話例を参考にしてみましょう。
佐藤さん「 鈴木さん、なんか悩みがあるんだって?私で良かったら、話聞くよ。こっちは明日の七時以降だったら空いてるけど、どう?」
鈴木さん(どうしよう。佐藤さんには相談したくないなあ。よし、断ろう)「あ、大丈夫です。」
佐藤さん「じゃあ、待ち合わせは駅前でいい?」
鈴木さん「あの、大丈夫なので。」
佐藤さん「じゃ、明日7時に駅前で。」
鈴木さん(断ってるのに、なんで通じないんだろう……)
このように「断ったつもりなのに通じない」という経験をされた方もおられるのではないでしょうか。
日本語の「大丈夫」には「それでOKです」という肯定の意味の他に、「そんなことをしてもらう必要はありません」と断りる意味もあります。
「大丈夫」は、まったく正反対の意味を同時に持つため、日本語を勉強している海外の人々にとっては難しい表現だと言われいます。
日常の風景でもう一つ例を挙げてみましょう。
よくあるセルフサービスのカフェで食器を下げるとき、食器を返却する場所が分からず迷ったとします。
おそらく近くのスタッフカウンターに返却すればいいのだろう、と思ったものの、いまいち自信がないので、店員さんに「食器はカウンターに返却すればいいですか?」と尋ねました。
すると「あ、大丈夫ですよ~」という返事が。
これは「そこに返却してもらってOKです」
という意味なのか、
「私たちが運びますので、お客様に返却していただかなくても結構です」
という意味なのか、曖昧ですよね。
さらに、この例の説明の中での「OKです」と「結構です」という言葉も実は曖昧です。
例えば、原稿の文章校正をしているときに、
「数字の表記を、漢数字から洋数字に変えますか?」という問い合わせがあったとして、「OK」と返答した場合、
「変えていいです」という意味なのか
「変える必要はない」「そのままでOK」という意味なのか、どちらにも解釈できます。
曖昧さを払拭する手段としては、「大丈夫です」や「OKです」を単独で使うのはやめて、「ご提案のとおりでOKです」とか「お気遣いいただかなくても大丈夫です」などと言うように一言付け加えるのが良いでしょう。
より具体的な言葉と一緒に使えば、曖昧さが消えますし、そうすることで、「ご提案のとおりにしてください」とか「お気遣いは要りません」などのように命令文や否定文の形で言い切ることなく、「大丈夫です」「OKです」といった印象を柔らかくする言葉の真価が発揮されるような気がします。
「結構です」も、「それで良いです」という意味と、「要りません」という正反対の意味を同時に持っています。
こういった曖昧さが、電話を使った詐欺の手口にも使われることも頻発しています。
たとえば、電話口のセールスで「これこれこういう商品がありますが、いかがですか?」と質問されたときに「結構です」と断ると、「承諾した」とみなされ、勝手に商品や契約書が送り付けられることがあります。
こういう場合は、曖昧な「結構です」は決して使わずに、「要りません」とはっきり否定の形で言いきりましょう。
まとめ
鎖国をしていた時代なら、日本人同士の曖昧なニュアンスでの会話も成り立っていたでしょうが、グローバル化のすすんだ現代において、この曖昧な言語を逆手に取った犯罪も横行しています。
これからは曖昧な表現ではなく、意思が明確に伝わる言い方をするように心がけなければならないかもしれませんね。