しかしその欲求が強すぎると、相手に合わせた仮面をかぶり続けているうちに、自分の本心が何なのかがわからなくなってしまう人も多いという。
今回は、僧侶で曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明氏著書『やめる練習』(プレジデント社)よりやっかいな自分との上手な付き合い方についてお伝えしたいと思います。
人から理解してもらえないと感じれば、誰でも寂しさや孤独を抱えます。
しかし、その孤独や寂しさには多少なりとも甘えが含まれているのではないでしょうか。
なぜなら、人が人を理解するのは、本質的に難しいことだからです。
自分のことをちゃんと理解して欲しいと強く望むのは、人としての未熟な面がどこかにあるからかもしれません。
元々、人間同士はどんな関係であろうと、十分にきちんと理解してもらえないことなどはしょっちゅうあるものです。
距離が近い関係ほど理解も正しくされているという思い込みも違います。
たとえば家族であっても、あなたのことをちゃんと理解しているでしょうか。
自分のことをよく理解してくれていると思っていも、よくよく観察すると都合のよい解釈であなたを見ていないでしょうか。
他人の理解のみならず、自分自身のことですら人はまともに理解していません。
自分は自分のことをいちばんよくわかっていると思い込んでいますが、そのじつそうとはいえないのです。
何かの拍子に、今までは気づかなかった自分を発見したことはありませんか。
誰にも自分の内にあったのに出ていなかった、いわば海面下に隠れていた氷山のように「あれっ?」と初めて気づく未知のものがたくさんあるのです。
日常生活のなかではなかなか気づきませんが、思いがけない出来事に出くわしたりすると、意識の底のほうに沈んで隠れていたもの突然ひょいと顔を出したりします。
自分のことですらそうなのですから、ましてや他人が自分を正しく理解することが不可能なのは、言わずもがなです。
SNSを通して自分のことを事細かに発信する人は、私を見て欲しい、私という人間をわかって欲しい、他者から認められたいという承認欲求が強くあるのでしょう。
会ったこともない多数の人とネット上の友だちになったり、LINEで自分の行動を逐一報告し合ったりするのは、私のことを気にかけて欲しい、かまって欲しいというメッセージを送っているわけです。
ネット空間において人との出会いやつながりを強く求めるのは、現実の人間関係が満たされていないからかもしれません。
こういう人たちは、「人と人は理解し合うもの」という願望が強いような気がします。
それが現実ではうまくいかないので、ネットでの人間関係づくりに熱心になってしまうのではないでしょうか。
自分を半分でも理解してくれればもう上等じゃないか、それぐらいの期待値で人と向き合ったほうがうまくいくのです。
最近は自分を実際以上によく見せることを、「盛る」というカジュアルな言葉で表現したりしますね。
SNSの世界では、写真や動画に小細工を施したり、飾り付けたり、誇張した言葉で自分をよく装ったり、「盛る」ことが当たり前のように行われています。
現実の自分を知らない不特定多数の人たちに向けて発信しているので、多少盛ってもわからないし、よく見せるとそれだけ賞賛も多く得られる。
そんな気持ちから「盛る」ことに大勢の人がせっせと取り組んでいるのだと思います。
確かに「盛る」ことには遊びの要素もあって楽しい部分もあるでしょうが、それが日常になってしまうことは、ある意味怖いです。
なぜなら、「盛る」ことを続けていると、「ありのままの自分」が成長しないからです。
よく「等身大の自分」といういい方をしますが、人は等身大の自分を自覚して生きてこそ、人間関係からさまざまな学びを得ます。
自分を盛るクセがつくと、やがて自分でも実際の姿と盛った姿の区別がつかなくなってしまう危険性があり、厳しいいい方をすれば「偽りの人生」を生きることになってしまいます。
もとより「盛る」のは、自信がない自分に背伸びをさせて格好をつけたいからです。
自分を誇張することにエネルギーを注ぐのは、虚しい努力でしかありません。
一時の自己満足にはなるかもしれませんが、他人からは「盛る」姿勢が透けて見え、失笑の対象にならないとも限りません。
自分を盛るクセがある人は、まず己の小ささを自覚するといいのです。
そのとき格好悪いことをしていたなと感じれば、今度は自分の内側を磨くことに目を向けることができます。
ありのままの自分を磨く努力は、「盛る」努力とは違ってちゃんと見返りがあります。
「明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)」という禅語があります。
すべてが隠すところなく明らかに現れているという意味です。
自然はまさにそうであり、真理もまたそこにあります。
人も素の自分、あるがままの姿で生きればよいのです。
飾りをとったありのままの自分を見つめ、駄目な部分も素直にさらけ出して生きる。
人は自分の未熟さを自覚することで成長していきます。
それが本当の自信にもつながり、折れることのないしなやかな強さを生み出すのです。
ネットに馴染んでいる最近の若年世代は、恋愛関係をどこかで望んでいても深入りしない人が多いそうです。
相手との距離を縮めることで自分が傷つくのが怖いためにあえて友達でい続けたりするといいます。
その結果、相手にとってはいつまでもただの「いい人」で終わってしまう。
「いい人」というのは、善い人を目指してそうなるのではなく、悪く思われたくない結果としてそうなるわけです。
昨今はそんな「いい人」と思われたい人が、男女、世代を問わず増えている印象があります。
「いい人」願望というのは、悪く思われると人間関係のストレスが増す、だからそれをできるだけ避けたいという心理から起こるものです。
社会が複雑になれば人間関係も複雑になりますから、現代人のストレスはかつてないほど強くなっているとも言えます。
「いい人」という仮面をとりあえずつけておくのは、ストレスを減らし、心の安全を守るための防衛心理からくるものです。
自分を守るためにかぶっている「いい人」の仮面ですが、ずっとかぶり続けていると、やがて素の自分が出せなくなります。
実際の姿や本心を見せることは、その人がその人らしく生きていくうえでとても大切なことなのですが、それがしづらくなるのです。
なので、「いい人」を演じ続けていると、素の自分が呼吸できなくなり、また別のストレスになります。
本心ではこういうふうにしたいと思っても、それを出すと嫌われたり、トラブルになったりするかもしれないと考えて躊躇してしまう。
「いい人」の仮面をかぶり続け、自分の信念や本心をいつもに隠して生きるのなら、では、その人自身はいったい何のために生きているのだろうかという話になります。
自分らしい人生を生きるという点において、貴重な人生の時間を無駄にしないように心がけたいですね。
まとめ
とはいえ、いつも自分の気持ちや考えに素直に生きることができるかと言えば、それもまた複雑な現代の人間関係においてなかなかそうもいきません。
「いい人」という仮面を必要に応じてときおり使いつつ、なるべく素で生きる時間を長くするように、バランスをとっていきたいものです。
『やめる練習』