どんな親でも、子どもにとっては目の前にいる親しか知らないため、他の親と比べることはできず、自分の親が基準になります。
赤ちゃんの時から泣いていても無視するような親のもとで育つと、思春期に大暴れするケースがとても多くなったり、なんでも子どもの願いを叶える親の子にも、実は意外なリスクが潜んでいます。
今回は、日本で「アダルト・チルドレン」という概念を広めた精神科医の斎藤学氏著書 『「毒親」って言うな!』 から、親の価値観から離れて自分に自信をつけ、自分を好きになるヒントをご紹介します。
もともとは小児科医だったイギリスの精神分析医、ドナルド・ウィニコットは、完璧で理想的な親ではなく、「まぁまぁ普通の親」であればよいという意味で「グッドイナフ・マザー」という言葉を提唱しています。
親が生まれたばかりの我が子を見て感じるのは、自分では何ひとつできない、自分の意志を伝えることもできない、赤ちゃんの無力さとひ弱さではないでしょうか。
親は自分が必至で育てないとすぐにでも死んでしまうのではないか、と感じます。
泣いていないか、布団をかぶって窒息していないか、何か異常なことが起きていないか、お腹がすいていないかと始終そばにいて見張っていないと心配です。
そんなひ弱な子どもにとって、タイミングよく授乳などの世話をしてくれる親は「よい親」です。
なぜタイミングよく授乳できるかといえば、赤ちゃんに切れることのない関心を払い続けているからです。
常に赤ちゃんに意識が向いているので、ちょっとグズったら、「おなかすいた?」「ウンチした?」とすぐに世話ができます。
しかし現実的には、親の側にも生活がありますから、いつもタイミングよく世話ができるとは限りません。
それでも、少しタイミングが遅れたり、泣いている理由がわからなくても、赤ちゃんのことを気にかけて世話をしているのであれば、「まぁまぁ普通の親(グッドイナフ・マザー)」なのです。
一方で、生まれたばかりの赤ちゃんに「自分が世話をしなければ死んでしまうかもしれない」というひ弱さを感じることができず、赤ちゃんが泣いているのを無視して通り過ぎてしまう親もいます。
自営業を営んでいて、忙しすぎるような場合もあるでしょう。
親に時間的な余裕がなく、子どもがおっぱいほしさに泣いてもかまってやることができない。
そういう親の態度が続くと、あきらめてねだらなくなる赤ちゃんが現れます。
これが「サイレント・ベビー」です。
どんなにほったらかしにしておいても、ちっとも泣かず、おとなしくじっと待っている。
母親がそばにいようがいまいが、いつも静かなままという赤ちゃんです。
親にとっては、幼少期まではまったく手のかからない子どもだったのが、思春期になると突然大爆発をおこし、自傷行為から首吊りまで異常な大暴れする子になることがあります。
これは乳児期に一番大切な自己主張をしないまま成長してしまったことが一因と考えられます。
赤ちゃんの時に「お腹すいたー!」とギャーギャー泣いて怒るという自己主張をやってこなかったツケで、成長して言葉を持ってから爆発的に自己主張をしはじめて、親を攻撃するのです。
どんな子どもでも、少し成長すると親の言うことなどは素直に聞かなくなります。
親が喜ぶだろうと思い注文しれたお子さまランチを見てかんしゃくを起こしたり、「さわっちゃダメ」と言っておいたものに限っていじって壊したりするのです。
それは、自分も大人になりたい、親をモデルにした理想的な自己にたどり着き、ひとつ上の段階へ進みたいという要求が出てくるからです。
自分の能力を試したい、ちゃんとやれることを示すために、ひとりで階段を上ってみようと試みても、そばから「危ない」と親が手を貸そうとするので、その手を振り払って暴れたりするのです。
こんなシーンでも、「まだまだ赤ちゃんだと思っていたのに大きくなったのね」と我が子の成長をほほえましく思いつつ子どもの行為に任せていることができるのは、グッドイナフ・マザーでしょう。
「こぼすから」と心配して持っていこうとする親の手を振り払って運ぼうとしたみそ汁をぶちまけて、イライラした親に「だから言ったでしょ!」と怒られるのも、よくある普通の親子の光景です。
こんな騒ぎを繰り返しながら、まぁまぁ普通の親は、子どもが自分の手を離れていくことを、ちょっぴり寂しく思ったりしながらも受け入れていきます。
成長するとともに子どもは自分の思い通りになるものではないということを悟って、少しずつあきらめていくわけです。
同時に、子どもが生まれたばかりの頃は「将来は宇宙飛行士かオリンピック選手に」などと描いていた夢も、成長するにつれて「そういえば、この子は私の子だった」と現実を見るようになるにつれ、無謀な夢も消えてゆきます。
周囲から愛を受け、かわいがられて健全に育っていけば、生まれて半年もすれば「自己愛的自己」の中核ができてきます。
自分のことをいつも見つめ、一生懸命に世話をしてくれる両親の瞳(ひとみ)に映る自分が「自己愛的自己」です。
この自己はやがて「自己の歴史」を肯定的に語れるようになります。
この頃の子どもは、「もし私がいなかったら親は生きていけるのだろうか」くらいに思っています。
子どもが6~7歳ごろに成長すると、子どもとして扱われる一人前でない自分を繰り返し認識させられます。
親から叱られるときには、その目に映る「ダメな自分」を見つけて「批判的な自己」も生まれます。
「ごはんは残さず食べなさい」
「遊んだらちゃんとお片づけしなさい」
などと言われて、「ごはんを残さずに食べた自分はいい子」や「片づけない自分は悪い子」といったセルフイメージも作られていきます。
子どもというものは、普通、最初は誰でも傲慢で無礼、傍若無人の王様状態です。
その自分が一番偉いというセルフイメージからだんだんと落ちぶれていくのが普通の発達なのです。
小学校に入学しても学校の子どもたちの中では一番小さく、先生や先輩の言うことをよく聞いて行動しなければなりません。
先生や先輩は、親ほどは自分に注目してくれないことに気づきますし、そこで癇癪を起しても解決などしない、それを我慢しなければならないことも学びます。
これが、まぁまぁ普通の子でしょう。
「毒親」として攻撃されるのは、無視、無関心、ネグレクトなどの育児を放棄する親がわかりやすいですが、反対に常に子どものことを気にかけて、タイミングよく世話をするよい親の中からも、“過保護・過干渉型”の「毒親」が現れることがあります。
まぁまぁのところであきらめずに、過干渉、過度な管理、価値観の押し付けなど、いつまでも子どもに影響を及ぼしたがり、支配しようとするのです。
そろそろ自分で判断させたほうがいい時期になっても、まだ子どもの判断をすべて親の判断に置き換えて、赤ちゃんの頃と同じように扱いなんでもしてあげます。
子どもが優秀だったりすると、早めにダメぶりを発揮して親をあきらめさせることもできず、ずっと成績優秀のまま最後まで脱落するまいとがんばってしまうため、親のほうもいつまでも期待をかけ続けてしまいます。
大人になってから「毒親」騒ぎを起こしている人たちの中には、世間一般から見ると、早めにあきらめがつかず、人より長く勘違いが持ちこたえてしまった親子も多いのです。
まぁまぁ普通の親(グッドイナフ・マザー)は、夕方になっても何かと忙しく、子どもに「ごはんまだ~?」と催促されながら夕飯を作ることもあります。
あるいは「もう今日は疲れたから、スーパーのお惣菜を買って帰ろう」とたまには楽をしようということもあるでしょう。
これに対して優秀な親は、子どもがそろそろお腹がすく頃だ、とタイミングを見計らってサッと食事を出します。
子どもが欲求不満を起こす前に、なんでも先回りして満たしてあげてしまうのです。
なのでいつまでも自分が無力な子どもにすぎないという現実から目をそらして、王様気分でい続けることができます。
こうなると、子どもは相当な努力をしない限り親との一体感を切り離して、「自己」というものを確立できなくなります。
周囲や他者からの逆風がなければ、「自己」という意識は必要がなく、挫折の体験がなければ、そもそも「自己」というものは生まれないのです。
人生の一番初期に「空腹」という逆風があり、自分がこんなにお腹を空かせているのに周囲はわかってくれないのか、どうしてこんなに苦しい思いをするのだろうと思う時に自己意識が高まるのです。
家の中では王様だった子どもが、小学校へ入学するとともに何もできない一番下っ端に落ちぶれても、その屈辱を乗り越えて、また新たな自己を獲得して成長していくのです。
自分の行動が間違っていた時に、きちんと親から叱られるという経験も大切です。
例えば、「熱いからさわっちゃダメ」と言われたガス台にさわろうとして強く叱られたとき、親が自分を叱る声が“自分のためを思ってやってくれている”と受け入れられるような人格ができると、社会に出る段階になって外界との関係が楽に結べます。
ところが、ずっと転ばないようにと先導され、一見順風満帆で、羊水の中に漂っているような子どもは親と一体化していますから、自己などはいりません。
自分の欲求不満はいつも親がたちどころに解消してくれ、誰にも叱られることなく生きていると自己は発達しません。
そういう人は幼児的な自己愛にとどまってしまい、そのまま大人になると、自己愛が傷つくのを非常に恐れるようになります。
しかも、いつも先回りして自分の気持ちを満たしてくれる人のそばで生きていると、自己主張のやり方もわからないままです。
周囲とぶつかり合いながら、自分の欲求も主張し、落としどころを見つけて折り合いをつけることができなくなってしまいます。
表現したがっている自己があるにもかかわらず、うまく表現できないモヤモヤを抱え、無理に主張しようとすると「自分が、自分が」と子どものようになってしまい、当然周囲には受け入れてもらえませんから摩擦が起きます。
子どもの欲求を完全に充足し続けてあげようという親心は逆効果となり、ある程度不満がありつつ、適切な量の不満を自分で解決していくことで自己が育ち、人格が育っていくと考えられます。
「適切な量の不満」がどれほどの量かという問いは無意味であるものの、トラウマとなるような危険な体験は健全な自己の発達を妨げますし、不満や逆風がなさすぎても自己が発達しないのです。
自己をうまく発達させることができなかった大人は、自分が不幸なのは、子どもなのに子どもらしくいることができず、機能不全家族のなかで大人になったアダルト・チルドレンだからと言います。
そういう大人たちは「親の虐待行動の理由がわからない」「自分の行動に自信が持てない」という悩みを抱えています。
しかし、患者が本当に抱えている悩みは毒親のことではないのです。
彼らが「毒親」という言葉を使うことで表現しているのは、今現在の不安です。
私たちは常に自分を定義づけして生きていますが、どうしようもなくダメで絶望的な状況にあるとき、なぜ自分がこんなつらいのか、それを説明する言葉がほしくなります。
対人関係に問題やトラブルが起きたときに、現在の不幸な自分を説明するための言い訳として「毒親」という言葉を使うことで、現状の不安感や不幸な状況が自分のせいではないと安心材料にしているのです。
言い訳に「毒親」を登場させることで自分を納得させ、現在の絶望的な状況、その原因を「毒親」に求めることで、かろうじて自己愛の維持をはかるのです。
毒親を持つ人の人生が、一生毒親に支配されるかどうかはその人次第。
自分の人生はいつでも、どの時期からでも変えていくことはできるのです。
まとめ
確かにあなたの親は毒親だったかもしれませんが、それは過去のことです。
自分の親が毒親だったと気づくことと、人生をやり直すために自分を変えることに目を向けることは全く別の問題です。
うまくいかない原因を「毒親」のせいにするのはやめて、自分を変えることに目を向け、人間関係をよくする努力をしていくと、きっと新しい風景が見えてくることでしょう。
『「毒親」って言うな!』