その病の元凶である「ある感情」さえ捨てることができたら健康な心の維持は難しくない、と初期仏教の伝道師アルボムッレ・スマナサーラ長老は言います。
今回は、彼の提唱する心の健康維持法を著書『心は病気:悩みを突き抜けて幸福を育てる法』から考えてみたいと思います。
「自分はこれくらいできる」「これくらいやってやる」と思っていたのに、いざやってみると想像していたようには何一つできない、というのはよくあることです。
心は自分が偉い、できる、と思っているので、理想の自分と今の自分のギャップに打ちのめされてしまうのです。
例えば、結婚式でスピーチを頼まれたとします。
スピーチというのは5分くらいで言いたいことを簡潔にまとめて話すものですが、自信がありすぎる人は、「よし、抜群のスピーチをしてやろう」と頭の中であれこれと、できる限りの妄想をしてしまうのです。
その結果、長々と30分もしゃべったりして、ひんしゅくを買います。
しかも、そういう人に限って、ひとつもいいことはしゃべっていないのです。
本人も心臓がドキドキして、汗が吹き出し、膝がガクガクと笑って、もうひどい気分なのです。
これも、妄想の中の自分を過大に評価していることが原因です。
反対に、自信のない人のほうがいいスピーチができたりします。
そういう人は「どうせ私は口下手で大したスピーチなんてできないから、ちゃちゃっとしゃべってさっさと早く逃げよう」と思うのです。
でもそのちゃちゃっとが、新郎新婦やご家族、友人などにお祝いを述べ、自分がスピーチをさせてもらった感謝の言葉を添えるという必要なことがぴったりと収まった、きれいなスピーチになったりします。
「私は口下手であまり長い時間しゃべれませんが、とにかく本当におめでとうございます。お幸せに。ありがとうございます」という感じで、すぐ終わってしまいますが、こちらのほうがみんなには受けるのです。
それができないのは、自信がありすぎるせいなのです。
「自分の仕事に自信がない」という人もよくいますが、それも何か奇跡的な成功を頭で妄想しているせいです。
「そこそこでいいじゃないか」と思えないために、結局何もできなくなってしまうのです。
実現できるかどうかわからない目標を目指すのではなく、目の前の仕事を大切に、自分に悔いが残らないように、できることをすればいいのです。
もちろん、結果は自分だけの頑張りで決まるものではなく周りとの兼ね合いがあるでしょう。
しかし、どんな結果になっても「自分は精一杯やった」と心から言える、そんな状態を目指すのがいいのです。
仏教の立場から言えば、自信がありすぎてなんにでも手を出す状態は、病気です。
しかしながら世間ではそう言いません。
うつ病とか対人関係に自信がないとか、人に会うのが怖いとか、そういうものは精神的な病気として見るのに、自信がありすぎる者のことは、誰も病気だとは言わないのです。
むしろ、やり手だとか敏腕だとか言ってほめることが多い、それが世の中の心理治療の世界です。
仏教的に考えれば、どちらも危険な道で病気であることに変わりはありません。
「あなたはこの病気の代わりにこっちの病気になりなさい」と言っているのと同じことなのです。
「ガンが怖い」と言う人に「じゃあ代わりに高血圧と心臓の病気になりなさい」と勧めているようなものです。
でも、高血圧や心臓病はガンより早く死ぬこともありますから、そう考えると、現代の心理治療はいい加減なのかもしれません。
仏教の世界では、「自我・エゴという高慢」を捨てることを徹底的に教えます。
それは、すべての問題は自我から生まれる、と考えているからです。
「自我・エゴ」というのは「まったく変わらない確固たる自分が存在する」と思うことです。
「自我意識」と言葉が似ていますが、「自我・エゴ」と「自我意識」は違います。
我々には瞬間瞬間、自我意識が生まれます。
何かを見たら「私が○○を見た」、何かを聞いたら「私が○○を聞いた」と認識することが、自我意識です。
この自我意識は、修行して悟りをひらくことでなくなるものです。
ですから自我意識の問題は、今お話ししている自我・エゴよりずっと先にあるテーマなのです。
自我・エゴというのは、瞬間瞬間のこの自我意識に気づくことなく「確固たる私がいる」と想定することです。
言い換えれば、「見たり聞いたり話したり考えたりする、変わらない自分がいる、存在している」という気持ちなのです。
変わらない自分がいると想定すると、瞬間瞬間変わってゆく環境に、適応できなくなります。
だから、精神的な病気になる原因は自我だ、ということになるのです。
そして、精神的にも身体的にも病気になると「私はそういう病気だからしょうがない」と思ってしまう。
「私はこんな病だから、勉強も仕事もできないんだ」と思って、自分を正当化してしまいます。
「自分ではなく病気が悪い」と思えば自我が守れるので、簡単に逃げる道を選んで、ますます精神的に弱くなるのです。
お医者さんたちも一生懸命頑張って、心理学的になんとか治そうとします。
とにかく症状だけでも抑えようとして薬を出してしまいますが、ああいうのはぜんぶごまかしです。
精神安定剤などいろいろな薬がありますが、飲んで落ち着くとかいう効き目はあっても、病気を根本から治せるわけではありません。
心というのは「わがままな大バカ者」で、手に負えない曲者なのです。
自分のエゴを守るために、あの手この手の言い訳を繰り出してきて、我々が考えつく方法では、その病んだプロセスは治せません。
自我からすべてが生まれるのですから、自我を捨てれば問題も消えるのです。
自我のたわごとには一切耳を貸さないで、自我そのものを捨ててしまうのです。
自我を捨てるとはどういうことかというと、「自分の心は、弱くて脆くて大したことのないものだ。どうでもよくてくだらない心だから、誰のものでも同じだ」という事実を認めることです。
自分が自分が、という自我を完全に横に置いておけば、自分が何者でもないことを心から理解できます。
そうすると、たとえ失敗しても、「自分は大したことのない人間なんだから、仕方ないじゃないか」と思うだけで、怒りなど湧いてきませんし、イライラしたり落ち込むこともありません。
逆に成功しても「我ながらよくやったじゃないか。たまたまうまくいってよかったよ」と思うだけで偉そうな気分になることもなく、失敗しても成功しても淡々としていられるのです。
そしていつもそういう気持ちで生きていられれば、たまたまうまくいっただけ、たまたま会社が儲かっただけ、たまたま失敗しただけ…と、ぜんぶ大したことではなくなるので、病気にはならないのですが、しかし、現実は違います。
「たまたま」の代わりに人間が何を考えるかといえば「ここは自分に任せろ」とか「自分がこの会社をここまで発展させたんだ」とか「自分にはこんなすごい能力があるんだ」とか、やはり自分が自分が…という気持ちが出てきてしまう。
そんな気持ちでいると、うまくいかなくなったとたんに耐えられなくなって、病気になったり、絶望したり、最悪の場合は自殺してしまったりするのです。
自分の置かれた状況がずっと同じということはありえないし、環境は常に変わっていきます。
仕事もうまくいったりいかなかったりで、失敗もありふれたことなのです。
仏教的に正しい態度は「精一杯やったら、失敗しても成功しても、どっちでも構わない」という態度です。
それさえしっかり覚えておけば、健康な心を維持することは難しくはないのです。
まとめ
仏教の教えでは、自分が何者でもないということを受け入れることで、精一杯やれば結果は成功でも失敗でも構わないとい思える健康な心を維持することは難しくないようです。
なかなか自我を横に置くことのできない私たちにとって、お釈迦さまの力をお借りする身近なアイテムがあります。
それが仏教の宇宙観を5つの色で表している「仏旗(ぶっき)」と呼ばれる旗です。
この旗の色の意味は、下記のような意味を持ち、お釈迦さまが力をはたらかせる時、体から青・赤・白・樺(橙)および「輝き」の六色の光が放たれることに由来しています。
・青-お釈迦さまの髪の毛の色で、心乱れず穏やかな状態で力強く生き抜く、定根(じょうこん)・禅定(ぜんじょう)を表します。
・黄-燦然と輝くお釈迦さまの身体で、豊かな姿で確固とした揺るぎない性質、金剛(こんごう)を表します。
・赤-お釈迦さまの情熱ほとばしる血液の色で、大いなる慈悲の心で人々を救済することが止まることのない、精進(しょうじん)を表す
・白-お釈迦さまの説法される歯の色で、清らかな心で諸々の悪業や煩悩の苦しみを清める、清浄(しょうじょう)を表します。
・樺-お釈迦さまの聖なる身体を包む袈裟の色で、あらゆる侮辱や迫害、誘惑などによく耐えて怒らぬ、忍辱(にんにく)を表します。
お釈迦さまの教えのイメージを、色として覚えておくのもよいかもしれません。
心は病気: 悩みを突き抜けて幸福を育てる法