かつては家族のなかで親と子として、夫と妻として、ともに語らい、人生を歩み、いつくしみあった関係だったというのに、今や娘のことを覚えていない母、数分ごとに同じ話を繰り返す父、徘徊する夫、突然怒り出す妻…という姿を受け入れて介護する日々。
「もう、疲れ果てました。これ以上ありのままを受け入れて、優しく世話を続けることなどできません。」
そんな本音が漏れても責めることはできないでしょう。
介護を担う側の気持ちは、周囲も十分過ぎるほど理解しているはずなのです。
そのような認知症介護の世界での変革をもたらす技術として注目されているのが「ユマニチュード」です。
今回から、人間らしいケアと称される、この新たな介護ケアについて5回にわたってお伝えしようと思います。
1998年から2015年間で、「介護殺人」事件は716件発生し、そのうち724人が死亡しているという事実です。
(「日本福祉大学社会福祉論集」第134号2016年3月/湯原悦子)
下の図1は、1998年から2015年までの過去18年間の「介護殺人」件数を調査したものです。
事件のなかには、介護される側を殺めてしまっただけでなく、介護に苦しみ無理心中に至ったケースも含まれており、ケースによっては介護をする人がいかに追い詰められているかがわかります。
図2では、株式会社ウェルクスが認知症の家族を介護した経験のある人が「虐待をしてしまうかもしれない」とどんな瞬間に感じたかを調査したものです。
全体の45%の人が「言うことを聞かない」ことへのストレスを強く感じていることがわかります。
「やって欲しいこと」と「やらないで欲しいこと」が相手に伝わらないのは、介護をする人にとっては、一番苦しく、介護を辛い重荷として抱えさせてしまう原因となっているのです。
ところが「ユマニチュード」の提唱者によると、多くの認知症患者は「言うことを聞かない」のではなく、「何を言われているか理解していない」ために、意思疎通ができないだけなのかもしれないと言います。
介護をする側は「伝えたつもり」でも、実際には「伝わっていない」ことが問題で、言うことをきいてくれないのではなく、伝わっていないのかもしれないのです。
実際に「ユマニチュード」の技術を持つ、看護師や介護士が関わると、おむつ交換のたびに暴れていた患者が穏やかにケアに応じることはもちろん、長年、ベッドから降りたことのなかった高齢者が、数時間で立ち上がり、自身の足で歩き出すことも少なくないといいます。
「ユマニチュード」の技術を使えば、こちらの意思を認知症を患う相手に明確に伝えることができるようになると言うのです。
そもそも「ユマニチュード」は、ふたりのフランス人、イヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏がつくりだしたケアの技法です。
その技法をいち早く学び、日本へ伝え、広める努力を続けているのが、国立病院機構東京医療センターの本田美和子医師です。
日本の「ユマニチュード」第一人者として、ご活躍されている本田医師の著作をベースに「ユマニチュード」の技術を解いていこうと思います。
実際に「ユマニチュード」の技法を使った例としていくつかご紹介します。
【ケース1】ケアを拒み寝たきりだった高齢者が、立ち上がり歩いた
入院されてから毎日ほぼ寝たきりの患者のところへ、歯磨きや体の清浄、着替えに訪れる看護師に対し、毎回、患者さんが体を触られることを拒み、暴れていたケースです。
ひどい時には看護師の手にかみつき、手に負えない状態だったと病院スタッフは言います。
実際にイヴ・ジネスト氏がこの様子を見て、ケアの見本を見せました。
ジネスト氏は部屋の扉をノックし、相手の反応があったことを確かめた後に寝ている患者さんの枕元へ近づきます。
そして患者の顔と同じ目線になり、可能な限り自分の顔を近づけ「今日は天気が良いですよ。廊下の窓からは富士山が見えました。せっかくだから見に行きませんか?」と話しかけたのです。
すると、寝たきりだった患者さんが立ち上がり、両脇を支えながらも歩き出したのです。
その後、「ユマニチュード」のインストラクターは患者さんの口腔ケアまで行いました。患者からは笑顔がたくさん溢れ、生きる気力を取り戻したように見えました。
ご家族も病院のスタッフも、自分たちの行っていることとケアそのものは同じであるはずなのに、奇跡みたいだ、魔法のようだと感激していました。
もちろん、ジネスト氏は病院スタッフとまったく同じケアをしたわけではありません。
動作のひとつひとつ、目線、体の触れ方、言葉のチョイスなどすべてにに、「ユマニチュード」の技術が含まれていたのです。
【ケース2】食べ物を投げつける高齢者が穏やかになる
認知症で記憶の混乱が激しく、ときに声を荒げて暴力的な行動にも出てしまうお母様と、必死にケアを続ける娘さんのご家庭がありました。
看護師が訪問していた際に、ちょうどお茶の時間になったとき、突然お母様が和菓子を投げ始めました。
娘さんは看護師の前で、和菓子を投げるお母親に辟易したご様子です。
同席してその様子を見ていた「ユマニチュード」のインストラクターでもあった看護師は、お母様に対して「成田山ご存じですか?」と、唐突に話しかけました。
お母様は「知っとるよ」と、最初はきょとんとした表情。
看護師が成田山の豆まきの話題を出し「今のは、豆まきみたいでしたね」話すと、お母様は和菓子を投げたことを忘れ、昔の豆まきの話を始めたのです。
すっかり穏やかな表情に戻り、その後も落ち着いたまま過ごすことができました。
また、このお母様は、数分おきに何度も同じことを尋ねることがあり、昔の記憶と混乱して「子どもを探しに行かなきゃ」と慌てることも頻繁にあったそうです。
その様子を見たジネスト氏は、娘さんに話題を変える「ユマニチュード」の技術を伝えました。
日を重ねてお宅を訪ねるたびに、驚くほどお二人の関係は穏やかになっていったそうです。
娘さんはお母様が混乱しそうになると、昔、お母様が好きだったことに関連付けて話題を上手にそらします。
お母様は混乱することを忘れる代わりに、話しかけられた昔自分の好きだったことを思いだして表情は花が咲いたようにパッと明るくなりました。
本心でなくても構わないから、「お母さんの膝、かわいいね」「今日の髪型は素敵よ」というふうに娘さんはお母様を褒め、ポジティブな言葉かけを続けました。
それだけで、今までとは日常がまったく違うものになったと感想を述べたそうです。
この親子が行ったことは、時間のかかることでも、道具を使うことでもありません。
娘さんが少しの技術を会得して「お母様のことを大切に思っている」という言葉と態度をとり続けたに過ぎません。
「ユマニチュード」とは、フランス語で「人間らしさへの回帰」を意味します。
「人間らしい」とはどういうことか。
ユマニチュードの生みの親である、ジネスト氏とマレスコッティ氏の考え方は、「人としての存在を認めてもらうこと」「あなたのことが大切だと思われること」なのです。
ユマニチュード提唱者のイヴ・ジネスト氏(左)とロゼット・マレスコッティ氏
本心では、最期の日まで笑顔で尊厳を持って暮らして欲しいと、家族はみなそう願っているはずです。
しかし、日々の介護に疲れ切ったご家族は、いつしか「困った人」「手のかかる人」だという思いを抱えながらケアをすることになります。
そうした気持ちのまま、ただ「おはよう」「おむつかえるね」「体を拭くよ」と声をかけても、その声は介護を受ける人には届きません。
介護されている側は不安感や恐怖感を感じて、頑なになり、自分を守るために攻撃的になってしまうことすらあるのです。
そのときに、「あなたのことを大切に思っています」という気持ちを伝える技術を持っていたら、介護をする人と介護される人の関係は急速に改善されていくのです。
まとめ
「ユマニチュード」では、「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つの基本を大切にしています。
それぞれのテクニックを学ぶことで、介護される人が、人間としての尊厳を取り戻し、ケアしてくれる人に対して感謝の気持ちを持ってくれるようにもなります。
次回以降は、具体的な「ユマニチュード」の考え方を解説しながら、実際に在宅介護にとりいれたい、さまざまなテクニックをお伝えしていこうと思います。
ユマニチュード入門