勉強態度や成績、日頃の行動を心配して「このままではいけない。何とかしなくては」と先回りして「こうしろ、ああしろ」と口やかましく注意し、それが子どもに対する愛情だと思い込んでいる人は意外と多いのです。
そういう心配をすることが子どもへの愛情の証しという思い込みがあるということです。
今回は親の子どもに対する正しい「心配」と間違った「心配」について掘り下げたいと思います。
どんな親でも子どもが病気やケガをしたり、夜遅くなっても連絡なしに帰って来ないことが起こると言うまでもなく心配になります。
これが当然のことと言えるのは、この「心配」は事実に基づく正当な理由のある心配だからです。
子どもも「心配」されることで、親の愛情を実感することができます。
しかし、子どもが勉強をしない→テストで悪い点を取るだろう→優秀な学校に行けない→将来よい職業につけない→不幸になるかもしれないというような現状の問題を起きてもいない将来の不幸と根拠なく結びつけて想像に過ぎない「心配」をして、「ああすべき、こうすべき」と自分の不安や焦りを子どもにぶつけて追い込んでしまうのは執着やエゴから発生するものです。
厳しい言い方をすれば、これらは子どもへの愛情ではなく、自分の感情やこだわりに過ぎないのです。
事実これらの「心配」は、おおむね子どもに伝わっていません。
少なくとも子どもは親の愛情とは受け取らず、むしろ親のエゴをぶつけられているだけだと感じるでしょう。
こういう「心配」ばかりする親が自分の不安や焦りをもつほど、子どもはかえって親を心配させる方向へと走り出してしまうことがあります。
不思議なのですが本当のことです。
もしかすると親が間違った「心配」をしていることに気づいてもらおうとしているのかもしれません。
この間違った「心配」を避けるためには、次のことを自問自答してみてください。
子どもに対して何か心配な思いが沸き上がってきたとき、「こうするべき、ああするべき」と、先回りして心配することが本当に自分の真情から出ているものなのか。
自分が思う子どもへの愛情→心配すること→執着→エゴなのではないかと自問自答してみましょう。
もしかするとそれらは自分も親から言われてきたことをくり返しているだけかもしれない、あるいは世間の常識やルール、周囲の人々の話や他との比較によってそう思い込んでいるだけではないのか、と振り返って考えるのです。
正しい「心配」は愛からくるものであり、間違った「心配」は自己執着からくる心配です。
8月3日のブログにも書きましたが、執着とは必ずしも子どもなど他者を対象にするとは限りません。
たいていは自分の「こうあるべき」という思いへの執着であり、感情的なこだわりなのです。
執着を手放すことは相手を突き放すことではありません。
自分を縛りつけていた鎖を解き「なんとかなる」「大丈夫だ」と子どもを信じることで自分と子どもを解放し、お互いの存在を等身大で認めることにより、初めて真の愛情が成立します。
子どもが問題を起こしている時こそ、親は発想を転換させて「この子の問題は自分の抱えているどんな思い込みやこだわりを教えてくれているのだろうか」と探ってみてください。
そこには必ずハッとする大きな発見があるはずです。
子どもが1歳なら親も1歳です。
子どもが1歳の年相応のことしかできないのと同じで、親も1歳相応のことしかできなくて当然なのです。
親も子どもに「親育て」されて成長していくのですから。
子育ては、学校で教わるわけではありません。
昔のように祖父母と一緒に大所帯で暮らしていなければ、身近に教えてくれる人もいません。
だから、失敗することがあっても、わからないことがあっても当たり前なのです。
子どもを見て、育児書を読んで、調べて勉強して、周囲の親たちと話をして、その中から子どものためになるであろうより良いものを選んでいく。
子育てはとても高度なものといえます。
基本的な子育てのベースは、育児書やネットにも載っています。
友人や両親からためになるアドバイスをもらうこともあるはずです。
しかし、それはあくまで一般的な一つの例であって、本当の答えは目の前の子どもの中にしかありません。
たとえば子どもへの言葉がけひとつをとっても、育児書に載っている言葉を、そのままかけてもうまくいかないかもしれません。
それぞれの親と子どもにつり合った言葉に置き換えなければならないこともあります。
母親の呼び方でも、「ママ」「お母さん」「おふくろ」「おかあちゃん」など家庭によってさまざまなものがあります。
普段の家庭内での言葉づかいや親子の関わり方も、まったく同じということはありません。
家庭によってやり方は少しずつ違っているはずです。
育児書は、数学でいえば公式のような一般に通ずる法則です。
公式だけ覚えても問題が解けないように、目の前の問題に公式が当てはまるのかどうかを考えながら、子どもをよく見て、自分の家庭に合った方法に合わせて、応用していかなければなりません。
育児書通りにしていてもうまくいかなかったら、また違ったやり方を探して、自分なりの答えを探していく。
その繰り返しが、「子育て」であり「親育て」なのです。
これは、子育てにもいえることで、子どもを育てているようで、実は親の方がいろいろなことを子どもに教えてもらい学ばせてもらっています。
子どもの行動に困った時には、一度親である自分自身の態度や言動を振り返ってみましょう。
ちょっとした口癖、何気ない行動や習慣……子どもは親をよく見ています。
もしかするとそれを真似しているだけかもしれません。
子どもの姿を見ることで、自分自身も悪いところを直して成長していくことができるかもしれません。
子どもは親の悪いところばかりを見ているわけではなく、良いところだってよく見ていて真似をします。
つまり、子どもの良いところは親の良いところなので、子どもを通して自分の長所に気付くきっかけになることもあるのです。
子どもが言うことを聞かない、口ごたえする、反抗される、という状況に向き合い、その原因がどこから来るのか、子どもが本心で何を言いたいのかを真剣に考えることで親も成長します。
ほかの子と比べて同じことができない、うちの子は成長が遅いんじゃないか、と心配になっても、同じようにできるまで叱るのではなく、目の前にいる子どもが一人の人間として、周囲に受け入れられ、尊重されながら、子ども自身が自分の価値を感じるようになるには何をすればよいのかをあきらめずに一緒に考えることが、親としての愛情の深さではないでしょうか。
まとめ
子育ては親が子どもを一方的に庇護することではなく、子どもを育てながら親も人として成長するチャンスだと捉えれば子育ての恩恵はとても大きなものになります。
たとえ子どもが何人いても、親としては出産ごとにその子に「初めまして」なのです。
兄弟姉妹が何人いても性格や個性は一人ひとり違います。
うまくいかないことがあってもあきらめないで、子どもが新しいことを覚えて成長していくのと一緒に、ゆっくり親になっていけばよいのです。
アドラー子育て・親育て 育自の教科書—父母が学べば、子どもは伸びる