その中でも「友人」と呼ぶことのできる人が何人できるでしょうか。
♪友達百人できるかな♪などという歌がありますが、友人は一体どう選べばいいのか、その基準は人によりけりで、とてもあいまいなものです。
今回は、お釈迦様の教え「悪友を避けて善友を求めよ」の教えから、付き合ってはいけない4種類の人と付き合うべき4種類の人について解説していきましょう。
複数をイメージして作られたことや、相手に対する愛敬の意味があることから、「人と人が支え合う」という意味があると言われるようになったと考えられています。
「人間」という言葉を見てみると、「人の間」と書きます。
この言葉が表すように、人は一人きりでは生きていけません。
だから共に生きていく共同体として、家族をつくり、仲間をつくり、社会を作って、互いに助け合っているのです。
仏教では、こうした基礎社会の中で私たちが関係するすべての人々を「友」と呼びますが、一口に「友」といっても、世の中には、色々な「友」がいます。
当たり障りのない友もいれば、 いつも親しく交わっている友もいます。
志や目的を同じくする友もいるでしょう。
悪友もいれば、善友もいますが、仏教では「悪友を避けて、善友と関わりなさい」と教えています。
お釈迦さまは道を成すためには、「善友がすべて」とまで言い切っておられます。
それは、私たち人間は常に身近にいる人の影響を受けているからです。
例えば、街中で目をちょっと凝らしてみると、集団でいるグループが目に付くことでしょう。
彼らの服装、髪型、髪の色、話し方、話している言葉、立ち居振る舞いなどが、どれほど共通して似ているのかが、外見だけからでも見つけることができます。
もともと志向や目的が同じもの同士が集まってできたグループなのでしょうが、似たもの同士が一緒にいることで、さらにお互いが影響し合いエスカレートしていくのです。
すなわち、人間は悪友のそばにいれば悪友の影響を、善友の側にいれば善友の影響を、知らず知らずのうちに受けてしまいます。
それゆえに釈迦さまは、意識して友を見極めることの大切さを説かれたのです。
善友と悪友の見極め方は、とてもシンプルです。
それは、その友の話す言葉ではなく、行為を見るのこと。
その友が話した言葉ではなく、成したことを見るのです。
口先だけの人は、時に美しいく時に甘味で巧みな言葉を語ります。
しかし、どんなに美しく巧みな言葉であっても、そこに行為が伴わない人、自分のメリットのためにしか行動しない人、道徳的ではない人は、真の友ではありません。
言葉ではなく、行為を見ること。
その人が成したことを見ること、それが、善友の見極め方です。
善友を持つことは大切ですが、実際には、善友を得ることはそんなに簡単ではありません。
善友どころか、自分には普通の友さえいないと、一人ぼっちの寂しさを感じている人もいます。
これだけ通信技術が発展し、世界中の人たちと繋がれる環境にあって、毎日普通に会社に行き、普通に仕事をして、普通に生きているなかにおいても、ふとした瞬間、一人ぼっちの「孤独感」に襲われることがあります。
SNSを通じて大勢の人々と繋がっているようでいて、実は孤独。
応援してくれる多くのファンを抱える芸能人であっても、実は孤独。
多くの社員を抱える社長であっても、実は孤独。
帰る家や家族があっても、実は孤独。
そんな孤独が現実にはたくさんあります。
しかし、孤独なことは、実はチャンスでもあるのです。
仏教では、そんな「孤独」に陥る私たち人間に「孤独」を歩むことの大切さも教えています。
スリランカに伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された『スッタニパータ』という経典の中に、次のような一節が説かれています。
ここでいう勝れた朋友とは、善友のことです。
犀の角とは、孤独のことです。
お釈迦さまは、修行僧に向かって「善友を求めよ」と説かれましたが、善友が得られないのなら、「孤独にひとりで歩め」と鼓舞されたのです。
この「犀の角のようにただ独り歩め」というフレーズは、仏教に言及している数少ないヨーロッパの哲学者ニーチェにも影響を与えたといいます。
「善友を求めよ」と説かれながら「孤独にひとりで歩め」とも鼓舞されるのは、一見矛盾するようですが、ここにお釈迦様の真理があります。
修行僧は、高い志をもって道を成そうと歩む求道者であるがゆえ、寂しいからといって、寂しさを埋めたり、暇をつぶすために他人と交われば、振り回されたり、甘えたり、頼ったりして、自立心や集中力を削がれ、目標を見失ってしまう、それならば淡々と孤独なる一人の道を精進せよと言われているのです。
あなたがもし今「孤独」を感じているならば、それはチャンスであることをわかるべきなのです。
余計な他人と交わることをせずに、堂々と自分と向き合い、自分の成すべきことに、自分が成したいことに、時間とエネルギーを費やすのです。
犀の角のように、ただ独り歩むことで、あなたの心技体が向上してゆくのです。
心技体の向上とは、人格の向上です。
あなたの人格が向上すれば、類は友を呼んで、そこに自然と善友が現れてくるはずです。
1.何ものでも取っていく人
● 人に与えるときは少ないのに、自分が受け取るときは、できるだけ多く得ようとする人
● 自分の利益のみを追求する人
2.言葉だけの人
●「あのときは、ああしてあげた」と、過去のことを恩に着せて友情を装う人
●「今度、こうしてあげるから」と、未来のことに関して友情を装う人
● なすべきことが迫ってくると、「都合が悪い」と言い出す人
3.甘言を語る人(甘言:口当たりのよい言葉)
● 目の前ではお世辞を言い、裏では陰口をたたく人
● うわべだけのうまい言葉を語って、中身がともなっていない人
4.遊蕩(ゆうとう)の仲間(遊蕩:ギャンブル、お酒などに溺れること)
● 飲酒、ギャンブルに明け暮れている人のことです。
人に与えるときは少ないのに、もらうときはできるだけ多く得ようとしたり、自分の利益のみを追求するような人は、確かに「友」ではありません。
おべんちゃらを言って取り入る人、ことが目の前にせまると急に都合が悪いと逃げる人、陰で悪口を言う人も同様です。
遊蕩の仲間が「友」でないことはもちろんです。
一方で、お釈迦さまは、心のこもった「友」について、このようにおっしゃっています。
「次の4種類の友人は、心のこもった友であると知るべきである」 と述べています。
1.助けてくれる友
● 元気がないときに、守ってくれる人
● 正常な判断ができなくなったときに、正しい行動に向かわせる人
2.苦しいときも楽しいときも一様に友である人
● 窮地に陥っているときに、見捨てない人
● 辛いときにも一緒にいてくれる人
3.自分のためを思って話してくれる友
● 悪い道に入らないように忠告したり、大切な情報を教えてくれる人
4.同情してくれる友
● 落ち目になったときに心配してくれ、上り調子のときには一緒に喜んでくれる人
● 人から悪口を言われたときに、弁護してくれる人
お釈迦様は、このような「4種類の友人」こそ「親友」であると説き、「真心を持って交流しなさい」と説いています。
心が弱っているとき、心が荒んでいるとき、心が憤っているときには、悪友が寄って来やすいものです。
楽しいときだけの友ならたくさんいても、つらいときに一緒にいてくれる友は多くはありません。
人間関係の苦しみを手放すには、「どのような人と付き合い、どのような人と付き合わないか」の基準を持つことです。
その基準となるのが、お釈迦様の教えにある「4種類の敵」と「4種類の友人」なのです。
まとめ
人間関係の苦しみを手放すには「どのような人と付き合い、どのような人と付き合わないか」の基準を持つことです。
お釈迦様の「友の言葉ではなく、その人の行為を見よ」。
幸運を呼び寄せるのも、不幸を呼び寄せるのも、普段のあなたの人間関係にあるのです。
何より大切なことは、あなた自身が「付き合うべき人」となれるよう、人格を磨き、友に寄り添うことです。
すべてを味方 すべてが味方 (知的生きかた文庫)