ロゴセラピーの「ロゴ」は、ギリシャ語のロゴス(Logos)で、「意味」(meaning)を表します。
セラピー(Terapy)は「療法」ですので、シンプルに言うと、ロゴセラピーは、「意味療法」あるいは「意味による療法」だと言えます。
ロゴセラピーの大きな特徴は、
過去から今を考えるのではなく、
未来から今を考える。
という考え方です。
さて、「未来から今を考える」と言われても、ピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。
今回は、ロゴセラピーの考え方について具体的にお話ししていきたいと思います。
『意味による癒し』(フランクル[著]、山田邦男 [監訳] 春秋社)p5-6
この文章表現の中で「むしろ未来に焦点を」という「むしろ」とあえて記している理由ですが、精神分析学の創始者フロイトの精神分析では、焦点を「過去」に合わせます。
「過去」に何があったかをクライエントから聞き出し、「過去」にどう感じたかを思い出してもらいます。
そうやって主に過去に焦点を当てるのがフロイトの精神分析ですが、フランクルは「未来」に焦点を当てるのだと言っています。
20世紀最大の悲劇と言われるナチスによる強制収容所という地獄の体験をフランクルは生き延びました。
その時の体験を詳しく記した『夜と霧』(みすず書房)は世界的ベストセラーになっています。
フランクルが強制収容所という極限状況のなかで、生きることは、人生からの不断の問いかけに対して自分がどう応答するかということ、その「使命」を見つけた人が、生きることにどれだけ強くなれるかということを改めて確信したからです。
毎日が残酷で悲惨な状況にありながらも、それに「よく耐えた人」と「耐えられなかった人」の違いは、まさにそこにあったのです。
「生きる意味」が感じられない、寂しい、むなしい、心の中に何かが欠けているような、ぽっかり穴があいているような感覚を持つことはありませんか。
普通であれば、そんな感覚を持ったとしても、そんなこと考えても仕方ない、気持ちを切り替えて、また一日頑張ろうと、自分に言いきかせることができます。
しかしその「むなしさ」に心がとらわれてしまうと、沈んだ感覚がずっと続いてしまい、自分の心の中ばかり意識が向くようになります。
あれこれ思い悩み、寝つきが悪くなると不眠症になったり、精神の健康を損なったりします。
精神的に健康な時には、自分の負の部分は見えないものです。
ちょっとした「むなしさ」がよぎってもほんの一瞬で終わり気持ちを切り替えることが出来るのですが、何かを悩んだり、辛いことがあるとその「むなしさ」が人生に致命傷を与える重大なつまづき石となることもあります。
フランクルは、この「むなしさ」と正面から向き合った人であり、ロゴセラピーという心理療法を通して「生きる意味の喪失感」に苦しむ人々を救い続けたセラピストです。
フランクルは、ある大学生から手紙を受け取りました。
その大学生がフランクルに書いた手紙には次のように綴られていました。
『生きがい喪失の悩み』フランクル[著]、中村友太郎 [訳] 講談社)p14
大学生が亡くなった理由はおそらく自殺によるものだと思われます。
「生きていても意味がない」と深刻に考える「むなしさ」は、みずからを死に追いやることがあり、人間にとって「生きる意味」は、命にかかわる痛切に必要なものなのです。
その「生きる意味」の欠落感からくる「むなしさ」をフランクルは、「実存的空虚」(existential vacuum)または「実存的欲求不満:existential frustration」と名付けました。
「急性型」は、失恋や親しい人との死別、リストラ、会社の倒産、自然災害で家を失うなど、突如として訪れる悲劇によって襲われるむなしさや空虚感で、なぜむなしいのかという理由が自分で理解できる空虚感です。
それに対し「慢性型」は自分でも理由はよくわからないけれど、日常生活の中でなんとなく空虚感を感じ続けている、むなしさの原因がわからないものです。
慢性型は、なぜむなしさを感じるのかが自分自身でわからない分、急性型よりもやっかいだと言えると思います。
日々の生活にこれといった不満はない、まったくないといったら嘘になるけれど、「では、あなたは不幸ですか」と問われたら、「そんなことはない」と答えられます。
しかし「私は不幸ではない」そう答えた瞬間に、どこか違和感を感じる自分がいる。
それは心の底に浸透している慢性型の「空虚感」が、足を引っ張っているのかもしれませが、その「空虚感」が、どこから来るのか、なぜ存在しているのかはわかりません。
こういった原因不明の「むなしさ」は、なぜ生まれてくるのでしょう?
フランクルは、この答えになる考えとして次のように述べています。
『意味による癒し』(フランクル[著]、山田邦男 [監訳] 春秋社)p5-6
まとめ
なぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと嘆き悲しむだけで、人生に何も希望が持てない人に対しては、フランクルはどんな状況にあっても、生きることは、人生からの不断の問いかけに対して自分がどう応え続けられるかということであると語りました。
毎日が残酷で悲惨な状況にありながらも、それに「よく耐えた人」と「耐えられなかった人」の違いは、まさにそこにあったからです。
フランクル自身も自分に与えられた「使命」を意識することで、生きることにどれだけ強くなれるかということを改めて確信しました。