私が「生きる意味」を考えざるを得ない壁にぶつかったのは、娘が「生きている意味は何?」と私に投げかけたときです。
私自身これまで生きてきた中で「人生の意味」「生きる意味」を真剣に考えたことがなく、フランクルの創始した心理療法、ロゴセラピーに触れる機会がありませんでした。
生きる意味は何か?と聞かれても正直どう答えてよいかわからず、ではどうすれば知ることができるのかもわからず「生きる意味って何だろう」という疑問は私の頭から離れなくなりました。
そんな時、書店で偶然目についたフランクルの著書っが「生きる意味を求めて」です。
背表紙の、生きる意味…という文字を見つけたとき、求めてきた本に出合えたと直感して手に取りました。
それからずっとフランクルの言葉とロゴセラピーに励まされています。
フランクルの言葉は斬新で大胆でありながら、苦しみの中にあってもクスッと笑ってしまうユーモアがあります。
生きづらさや苦しい思いを抱えている人がここでフランクルに触れて、気持ちを切り替えるトリガーになれば、このブログも意味のあるものになるかもしれません。
彼は20世紀最大の悲劇であるナチスによるホロコーストを生き延びましたが、強制収容所という過酷な状況下においても、極めて冷静な眼差しで、絶望に追い込まれた人間の心理状態を観察し、書き留め、同時にフランクル自身も彼らと共に苦悩しながら「人間とは何か」という普遍の問いに対する答えを模索し続けたのです。
収容所という壮絶な現実において「人生から何も期待できない」と、生きることをやめようとした人に、彼はこう話しかけました。
「われわれが人生から何を期待できるか」が問題なのではなくて、むしろ「人生が何をわれわれから期待しているか」が問題なのである。
あなたでしか成し得ない何か、他人によって取り換えることのできないかけがえのない何かを人生はあなたに期待しているのだ、と。
人生に絶望していた人は、彼の言葉で死ぬことを思いとどまり、解放された後に愛する家族の元へ生きて戻るために何としても生きぬこうと決意するのでした。
父ガブリエルは医師を志したものの家が貧しく、その夢は叶えられませんでした。
厳格な性格で、国家公務員として働いていました。
母エルサは貴族出身の優しい人でした。
フランクルは3歳の時すでに医師になることを決心していたようですが、それを知った時、父ガブリエルはとても喜んだそうです。
フランクルの未来を予感させるエピソードがあります。
『フランクル回想録—20世紀を生きて』 春秋社
4歳にして人生の意味を問う経験をフランクルはしています。
哲学者としても相当早熟だったいえるでしょう。
高校生になったフランクルは、夜、成人向けの学校に通い、そこで心理学を選択します。
その時フロイトに関する講義があり、興味を持った彼はフロイトに手紙を書きました。
するとフロイトからまさかの返事が来たのです。
こうして16歳のフランクルはフロイトと文通をすることになったのです。
当時、フロイトといえば精神分析学会の頂点に君臨している人物だったのですが、そのフロイトが驚くことに、名もなき10代の少年に対して必ず3日以内に返事をくれたのだそうです。
このやりとりの中、ある時、フランクルは短い論文を手紙に同封しました。
するとこの論文はフロイトの推薦で1924年『国際精神分析ジャーナル』に掲載されたのです。
後年、医学部の学生となったフランクルは街でフロイトらしき人物に出会います。
声をかけるとまさしくその人物はフロイトで、10代のフランクルとの文通を覚えており、フロイトはフランクルの家の住所をその場で暗誦したというのですから恐るべき暗記力の持ち主です。
高校生の時フロイトと文通したフランクルは、長じて個人心理学の創始者アドラーに傾倒していきます。
ウィーン大学へ進学した彼は精神科医を志します。
フランクルはアドラーが創設した個人心理学協会のメンバーとなりますが、やがてフランクルは、アドラーの考えに疑問を抱くようになっていきます。
『死と愛』—ロゴセラピー入門(みすず書房 霜山徳爾 訳)の中でフランクルは、
と述べています。
フロイトやアドラーの考えは深層心理の分析に重きを置き過ぎていると考え、心の中ばかり覗いていると説いたのです。
これを「心理主義」と呼び、フランクルの納得できない点がありました。
アドラーの個人心理学協会では、アドラーの考えに異を唱える他のメンバーもいて、フランクルも次第に異論派に共鳴していきます。
アドラーもフランクルを無視するようになり、最終的にフランクルは協会から除名されることになってしまいます。
アドラーが師といえるフロイトに異を唱えフロイトから離れていったように、フランクルもアドラーに異を唱えて袂をわかつことになったのです。
アドラーと決別したフランクルは、悩める人々の声に耳を傾け、臨床実践の場に重きを置くようになっていきます。
医学博士の学位取得後、フランクルはウィーン大学精神医学病院で働き、同時に2年間、ヨゼフ・ゲルストマンのところで神経学を勉強しました。
その後4年間はアム・シュタインホーフ精神病院に勤め、年間3000人以上の患者を診察し、精神科医として研鑽を摘み、1937年(32歳)の時、ツェルニンガッセのアパートの4階で精神・神経科の専門医として開業したのです。
1938年3月、ヒトラーがオーストリア侵攻をはじめ、ユダヤ人であるフランクルはアメリカ合衆国への出国ビザをやっとの思いで取得しましたが、両親を置いていくことができずウィーンに留まることを選びました。
1941年12月に看護婦のティリーと結婚、1度は収容を延期されたものの最終的には、1942年9月に妻、両親、兄妹とテレージエンシュタットの強制収容所に収容されたのです。
そのとき、すでにロゴセラピーについての本の草稿がほぼ出来上がっていました。
その後、フランクルはアウシュヴィッツ、カウフェリング第3、テュルクハイムと4つの強制収容所を体験し、1945年4月にアメリカ軍により解放されました。
しかし約3年間にわたる収容所での生活から解放されたものの、妻、両親、兄など家族は収容所で亡くなっており、それを知ったフランクルが絶望して自殺するのではないかと周囲はしばらくのあいだ気が気ではなかったといいます。
1946年ウィーン市立総合病院神経科部長に就任。
同年フランクルの処女作であり、フランクル心理学「ロゴセラピー」の骨格が示された『死と愛』とアウシュビッツへの移送から45年に解放されるまでの強制収容所での体験を綴った『夜と霧』を出版します。 『夜と霧』は全米だけで発行部数が900万部を越えるといわれ、1991年にはアメリカ議会図書館の調査「私の人生に最も影響を与えた本」でベスト10入りを果たすベストセラーになっています。
私生活では1947年に口腔外科の看護婦エリーと再婚し、娘をもうけました。
フランクルはとてもユーモアに富んだ人で、彼の講演はユーモアにあふれ聴衆を魅了しました。
1980年には第1回世界ロゴセラピー会議が開催されました。
晩年は失明状態でありながらもフランクルは精力的に講演活動を行いました。
バイタリティにあふれる人物像は、晩年においても変わることはありませんでした。
1997年9月2日に享年92歳で逝去しました。
この考えは、フランクルが15、6歳の頃にはすでに抱いており、終生ぶれることはありませんでした。
まとめ
強制収容所のような過酷な極限状況ではないとしても、自分の人生に意味を感じられない、今の仕事をこのまま続けていて意味があるのかな、など誰にでも一度や二度は「人生の意味」や「仕事の意味」について自問したことがあると思います。
フランクルは、こうした状況に人が陥るのは、根源的なところで人が「意味」を求める存在だからである、と解き、人は人生に意味を求め、人生を意味で満たそうと生きる存在なのだと言っています。
あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望することはありません。
フランクルの言葉を目にして力が湧いてきた、という方がひとりでもいれば幸いです。